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July 30, 2007

否定と肯定の狭間に揺れるリスクチャレンジ -敗戦の記憶と共に-

リスクチャレンジ。

指揮官イビチャ・オシムが選手達に求めるプレーマインドの一つ。

それが最も形となって表れるのが、オリジナルポジションを離れるリスクを厭わずに攻撃に加わっていくプレー。

その表現の頻度を考えれば、選手達に深く浸透しており、チームの礎となっているのは間違いないだろう。

しかし、アジアの現実はその礎を、そして賢者の論理を否定した。

結果が雄弁に物語る。結果から学ばなければならない。

敗戦の記憶と共に、考えていきたい。

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・否定と肯定の狭間に揺れるリスクチャレンジ

バイタルエリアでフリーでボールを持った彼は、その広い視野でフリーで左前に拡がるスペースへと走り込むプレーヤーを捉えていた。しかし、ゴール正面でコースの開けた状況、迷わず彼はゴールを狙った。しかし、そのシュートは枠を捉えることなく、チャンスは潰えた。そのプレーにオシムは激昂。枠を外した事を怒ったのではない、よりよき状況にいたフリーのプレーヤーを使わない彼のプレーセレクトに対して激昂し、試合後彼を叱責した。

しかし、その裏で就任当初から、いや、ジェフの監督になった当時からリスクチャレンジを好み、推奨する論理を持った監督でもあった。ポジションブレイク、オーバーラップ、長距離ランニング……。こういったプレーでより多くのプレーヤーが攻撃参加する事を望み、そんなオシムの望みを十分に理解したジェフのプレーヤー達はダイナミックかつアグレッシブなプレーでリーグに新風を吹き込み、ひいては日本サッカーに鮮烈なる影響を与えた。

答えなどない、どちらが正しいなんてフットボールの中では断定出来ない。しかし、同列に並べるべき「チャレンジ」の中で否定と肯定があるというのは、選手達にとっては非常に複雑で、難解なモノとなっているのではないかと思わなくもない。

オシムの考えも理解出来るのだ。よりよき状況、より可能性の高い状況、これをスピーディに、クレバーに選択していく事がよりゴールの可能性を高め、結果に繋がっていく、それが彼の「論理」「理念」「哲学」。真逆のエゴイスティックなプレーを否定する事で、彼、中村憲剛はもちろん、周囲(マスコミ含め)へと自らの理念を伝えることを意図していたのだろう。

しかし、選手にとってはどちらも並列な気がしてならない。シュートを打つにしても、ドリブルで仕掛けるにしても、ダイナミズムを付随させるにしても、自らが責任を持つプレー、個々が持つ「リスクチャレンジマインド」が源流となって表現される。そういう意味では少々エゴイスティックではあっても、奨励すべきプレーでもあったのではないかと思う。

そして、今大会。オシムにとっては理想とは言い難いにしても、彼の「理念」に反するモノでもなかったのではないかと思う。ボールを失うという非効率的なプレーを巧妙なポゼッションで避け、穴を伺い、見いだしたところで個人のアイデアとグループでの連動で突く。エゴイスティックな個人プレーが少ない事は相対的な個の差を考えれば少ない事も考えようによってはクレバーであり、比較的理念に沿ったサッカーをしていたのかも知れない。

ただ、その理念はアジアの現実に否定された。引いた相手に対して、可能性の低いプレーを避ける事で、ゴールアテンプトの数を削り、直接的な脅威も相手へ与える圧力も削り取ってしまう。その結果、二つの失敗に繋がった。論理だけは語りきれないフットボールらしい矛盾、とも言えるだろうが、オシムの否定が影が暗く影を落とした事は揺るがない事実である。

*何となくだけど、日本人の従順性、権威への従属性と自らの影響力の大きさ、強さを見誤ったのではないかと思う。誰もがオシムを尊敬しているし、代表でプレーしたいと思っている。彼自身は自らの理念を伝えるだけでなく、そういう言葉の裏に期待であったり、反目的な要素を引き出そうとする狙いがある可能性もあるのだと思うが、そして、クラブで毎日接している訳ではないから、真意を掴むと言う事も難しい。代表監督となった自らの影響力の大きさは以前にも増して大きい。そしてそんな彼の否定は、選手達には酷く重い。憲剛の突如の崩れは、決して偶然ではないということを感じて欲しくもある(もし関塚監督が憲剛の積極性を蘇らせていなかったら、未だに不調にあがいていたかも知れない。セッキーの手腕は見事)

*正直この件に関しては結構否定的な感覚で見ていた。アジアカップではオシムの論理的なフットボールは矛を収めるような効果を生んでしまったわけだし、それが観戦者のストレスとなっていたこともあるのだけど、何よりもプレーヤーのメンタリティを抑制してしまったことが気になった。ただ、彼の理念や推奨するリスクチャレンジがこの結果や過程だけで否定されるべきでもないと思う。モダンフットボールに置ける重要な要素であることは誰もがわかっているはずだし、アジアカップ予選、札幌で見せたサウジ戦での美しく躍動的なフットボールは非常に魅力的だったからね。効果のあるモノである事も又証明されている。現在はチーム作りの途中、目的地に向けての過程として考えれば、現状でNOの烙印を押す事には正直ためらわれる部分もある。

*そう考えると、今後の課題として、オシムの理念とも言える論理的なリスクチャレンジと選手のエゴとも言える自発的なチャレンジプレーのバランスを取っていくという事にあるのかも知れない。個人的には自らの理念とは方向性がずれるかも知れないにしても異分子を持つプレーヤーを取り込むこと。エゴを持ったストライカーであったり(嘉人かな、現時点では)、局面を打開出来るドリブラーの登用(功治、松井、家長、梅崎、そしてアレックス)が何かの化学変化を起こすかも知れない。

*僕のサッカー理念として、僕は組織を形どるのは人というのは変わらない。組織の従属していてはいつまで経っても自分たちのサッカーにはならないし、自分たちの国のフットボールの形成にも繋がっていかないと思う。論理的なロジックを噛み砕き、なぞるだけの形骸化したプレーを少なく、状況に応じてより効果的なプレーをセレクトしていくことを目指して欲しい。それを可能にするのは選手。そこは逃げ場がないと思う。オシムたんがいくら素晴らしい監督でも、彼のロボットである必要ない。あくまでもプレーするのは選手だよ。

*最後のテーマとしては、個の力。少しずつ触れてきたけど、日本人プレーヤーの根本に触れたいと思う。組織に埋没するのではなく、組織ベースの中で輝く個、時には組織に越えて勝負を決める個、そんなモノを考えています。

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と言う事で、一日遅れましたが続きでした。とりあえずもう一回続く、予定です。無駄口は下で叩くので、今日はここまで。

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*独り言として。読まれていて気付かれているかも知れないけれど、否定しながらも肯定している。よく言われるダブルスたんダート的な文章となっています。書いていて自ら矛盾を感じているのだから、読んでいる方で気付かれている方も多いかも知れません。

否定気味のスタンスであるのですが、それはあくまでも上記した僕のサッカー感であり、今大会の結果や過程を見ての疑問があるから。あくまでも僕の感情に過ぎないです。

ただ、どこか言い切れない部分があるのは、フットボールというスポーツが断定を許さないモノだと思っているからかも知れません。論理的なフットボールが嵌るときもあれば、論理では言い表せない個の光が試合を飲み込む事もある。答えがないんですよ、自分の中で。理想として、論理とエゴが高め合うフットボール、なんだろうけど。でも、なんとなくすっきりしないなー。

*何かとりとめなくて申し訳ない。次はすっきりとまとめたいなー。

*てか、他の方のブログも色々な視点で面白い。多分こんな場末のブログを読んでいる人は色々なところを訪れてると思いますが、面白そうなのあったら教えて欲しいなー。僕?そうだなぁ………

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